能登半島地震 現地レポート | 日本合板商業組合【日合商関西支部報】

組合活動

2024年3月18日

組合活動能登半島地震 現地レポート

能登半島地震 現地レポート

大阪府木連津田潮会長の「被災地に行って直接首長に手渡そう」が三宅英隆大阪府木連専務の奔走で実現した。目的地は石川県輪島市と珠洲市。

2月8日(金)夕刻、有志7人(府木連津田会長、同ショーン・ローラー副会長、同三宅専務、徳岡設計徳岡社長、平林会島崎事務局長、随行役として津田産業の木原・栗崎両氏)は金沢駅前のホテルに集合して一泊。

2月9日朝7時、レンタカーしたワゴン車でホテルを出発、目的地の輪島市に向かった。市長とのアポイントは午前11時、普段なら2時間程度のドライブらしいが安全を見て4時間と想定した。

■2階が1階に

朝昼の食事用におにぎりと飲み物を買い込んだ一行は金沢駅前から能登半島の西岸を走る249号線を北上、羽咋市を経由して穴水町に向かった。ドライバーは最若手の栗崎万博氏、遠路宮崎からの助っ人である。途中、検問やら車線規制で渋滞はしたが徐行しながらも目的地には近づいた。問題は穴水町からだった。それまでは地震の被害は道路の陥没やひび割れが若干目立つ程度で建物の被害は目につかなかった。穴水町からは被害の程度が激変した。道はガタガタ、デコボコ、がけ崩れに立木の横折れまで発生していた。その光景は輪島市に近づくにつれて酷くなり、建物の倒壊が目立つようになってきた。屋根が落ちて1階になり瓦が散乱して足の踏み場もない。輪島市内のいたる所が通行止め。市役所に辿り着くのに一苦労だった。

■液状化による倒壊

輪島市役所2階で挙行された坂口茂市長への義援金贈呈式を終えた一行は、焼失した「輪島朝市」に向かった。その途中にテレビで放映された5階建てのビルの横倒し現場があった。家の倒壊が一番激しかった地域でもある。ビルの1階部分が根こそぎ露わになっていた。同行の徳岡氏は「液状化現象により基礎部分から根こそぎひっくり返った」と分析している。現場付近の地面は平坦ではなく傾いており、歩いているとクラクラとした。

 

■輪島朝市の惨状

次は海岸沿いの「朝市」の現場。テレビで何度も観たが焼失した範囲が想像したよりも広範囲だった。太平洋戦争の米軍による空襲で焼け落ちた日本の各地、その現代版が目の前にあった。よくもまあこれほど燃えたもんだ。火災とはなんと恐ろしいものか。被災者の方々の恐怖感を思うと言葉がない。「輪島朝市」は平安時代が起源とされ、朝8時から正午までの4時間、正月三ケ日と毎月第2・第4水曜日以外は店開きしていた輪島の名所。「輪島朝市」は道路を使う「青空市」のため現行の食品衛生上の制約があるという。悩ましい問題だ。

「この地震で4㍍」ほど隆起した海岸があるというニュースを観た。是非、見たい」という津田会長の発起で現地に向かった。ところがである。やはり大地震の被害は甚大だった。雪も残っている。道路が陥没して通行止め、トンネルが崩落して旧道を迂回。道路修復中の作業員に確認したところ「無理です」の返事。あえなく輪島市内にUターンした次第。1時間のロスであった。

■能登は、ひとりじゃない

一行は風光明媚な七尾湾沿いのドライブインで休憩をとった。このドライブインは牡蛎のBBQが名物(牡蛎には目がない津田会長が往路の時に見つけていたらしい)。「現地でお金を落とそう」という哲学(?)で牡蛎を注文した。お店は未だに断水状態だった。店内に貼ってあった一枚のステッカーが目に入った。【写真】「NOTO,NOT ALONE(能登は、ひとりじゃない)」―なんと素晴らしい英語だろう。

吉野石膏株式会社

■林ベニヤ産業七尾工場 慰問

小憩後、車は七尾市を目指した。そこには大阪府木連副会長の内藤和行氏が経営する林ベニヤ産業七尾工場がある。「せっかくここまで来たのだから地震見舞いに行こう」―当初の予定にはなかった津田会長の素晴らしい思い付きである。夕方5時前に七尾工場に到着、古川隆夫常務と酒井徹工場長と面談した。

地元七尾出身の古川常務は「今まで体験したことのない揺れでした。メイン道路に面した所はそれほどでもないが裏通りは古い家が多く被害が大きかった」と。また工場に関しては「陥没が多くどうなることかと思った。当初は1月5日から稼働予定だったが何とか9日から一部が動き出した。今は8割~9割に回復してきた」。丸太の仕入れに関しては「在庫はあるがこれからが心配だ。スギは北陸三県から仕入れ、カラマツは岐阜県が多い。能登半島からの仕入れ比率が高いので今後の丸太入荷が心配だ」と話していた。

■珠洲市長に義援金 全住宅が被害に

翌10日、一行(ショーン・徳岡・島崎の三氏は所要のため帰阪。新たに津田産業から二名参加)朝7時に金沢駅前を出発。輪島より遠方の珠洲市に5時間かけて到着、泉谷満寿裕市長に義援金の目録を贈呈した。

三宅専務のレポートによると、市長は「水がなくトイレも仮設で汚物処理もビニールに入れて処理車で運搬している。今は物資も送って頂き増えてきているが小さな都市なので予算が厳しい。やはりお金が有難い」と話している。珠洲市の全住宅約8500棟のうち約3300棟が全壊、約2000棟が半壊、一部破損が約2600棟、ほとんどの住宅が被害を受けた。水道管の復旧が困難だという。

■今こそ耐震補強「壁柱」

2011年3月の東日本大震災の3か月後の6月に被災地に行った。津田産業の復興住宅視察も兼ねてのことだったが、その時の記憶を今回の能登半島地震の被災地が思い出させた。規模は大きく違ったが東北は津波による「水害」だった。家々は流され、基礎の残骸ばかりが目立っていた。ところが今回は家屋の倒壊が矢鱈と多かった。瓦と瓦礫が目の高さより低い位置に散在していた。想像を絶する地震だったのだ。亡くなった方も家屋の倒壊によるものが多いという。

府木連が輪島と珠洲の両市長に提案したように、今こそ耐震基準に満たない日本の住宅の耐震補強が急務だ。越井健元府木連会長が発起して開発し、花尻忠夫・中村暢秀両会長が引き継いだ耐震補強「壁柱」の出番が忘れた頃にやってきた。※3月5日時点で府木連に寄せられた義援金は69社から1,021万5,706円。

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