業界木材業界を動かした人々
戦前・戦中・戦後のリーダーたち
大阪の木材業界は明治の中期まで市売市場を中心とした問屋、仲買衆を結合した同業組合によって運営されていた。資料によると明治17年の附売・市売問屋の数は54軒、仲買商を含めて500軒前後の業者がいたとある。120年ほど前の日露戦争勝利以降、樺太開発による北洋材の移入、大正5・6年頃に始まった米加材の輸入、更に南洋材丸太の輸入(大正中期以降)によって、これまでの「市売」中心から「附売」主体に移行し、木材取扱量の約7割を附売問屋が支配するところとなった。
従って木材街の中心はそれまでの長堀から千島・小林町に移り、大正末期から昭和初期には小林町方面への本支店設置が相次ぎ、特に製材工場の境川地区からの転出が目立った。
この写真は昭和23年11月22日、津田良太郎、式村儀一、白石英夫の三氏が発起し、徳寿会(世話人・島崎真平)メンバー7名を甲陽園「はり半」に招待した。『謝恩の夕べ』での記念写真。前列右から俵藤次郎(71)、山本長兵衛(76)、清水栄次郎(79)、大塚冬正(78)、森平蔵(74)、楠正治(62)、後列左から津田良太郎(60)、式村儀一(58)、井上信太郎(61)、白石英夫(60)、島崎真平(54)の皆さん。
国有林を含めた国産材と米材、南洋材などの集散地となった大阪の木材界のリーダーは、同業組合の一部(仲買)、二部(附売)、三部(市売問屋)の有力者によってバランスを保ちながら上手く選出され、自他ともに認める人物がその頂点に立っていたと言われている。二部のリーダーだった人物像に触れてみる。=敬称略=
戦前・戦中を通じて大阪木材業界の大物と目された森平蔵(森平産業・樟蔭学園創始者)は幸町の朝田出身で、村上龍平(村上木材)の先輩にあたる。大阪材木商同業組合長(※1)はじめ、昭和17年の企業統制で設立された大阪木材㈱の初代会長を務めた。社長は井上信太郎、専務は楠正治(楠商店)。米材輸入華やかなりし頃、太平洋を単身17回も往復した米材王・山長の総帥だった山本長兵衛は国有林、官材の取引でも他を圧倒していた。【写真】の長老格は清水栄次郎、山林経営から製材販売に至る数々の系列会社のオーナー(清水産業)。俵松の俵藤次郎も木材から家具、更に軽金属工業の分野に進出した豪商。式村儀市は秋田木材の重役で戦後、大阪木材林産組合初代組合長で白石英夫(元営林署長)その補佐役として敏腕を振るった。
同業組合二部系のピカ一と言われた中川勝平は森平蔵のあとを受けて昭和7年から連続3期同業組合長を務めた。紀州の素封家で塩路の四男として生まれ、少年時代は俵藤次郎とともに長堀の小川三郎兵衛商店で修業。26歳の時に幸町の老舗かね半・中川半平に望まれて中川家に入る。米材ユーレカの特約店として敏腕を振るい日本外材輸入協会などの要職にあり、昭和9年創業の東洋ベニヤ工業の社長も務めた。中川勝平が理事長だった阪神米材問屋商業組合の常務理事中久保昇二郎(のちの大阪木材相互市場社長)、高浜幸雄(日比貿易専務)、遠藤義一(関西パネル木材社長)は名コンビとして戦後、その頭角を現している。
津田良太郎(津田産業初代社長)は江州彦根の産で大正9年大阪に進出し、秋田木材と特約、秋田杉の販路を西日本に拡大。関東大震災後は米材に着目して業容を広げ、戦時中は満州、北中支に馬首を転じ、軍用木材の集荷販売の拠点を全国十数か所に設置、人材養成にも大いにその手腕を発揮した。二部系の有力者は他にも村上庄、中熊、中重、京竹、瀬崎、紅友、白坂、丸阿、大塚冬正などの名前も記されている。
(※1)大阪材木商同業組合 組織の原点は「座」に始まるといわれている。中世ヨーロッパにも「ギルド」と称する組織が存在した。「座」が「会所」になり「寄り合い」に移行し「組合」に進歩した。江戸時代の材木屋の集団組織と言えば「十人材木屋」を頂点にした材木株仲間であった。この組織は幕末まで続き、維新後明治5年に廃止となった。その後、明治41年に従来の問屋組織と仲買商の組織を合して発足したのが大阪材木商同業組合である。発起人は41名、発起人総代7人(藤井平治郎、辰馬圭介、筒井徳右衛門、金星久兵衛、柏岡武兵衛、俵藤次郎、清水益次郎)。組合長は藤井。昭和17年7月22日の木材統制法で解散。今の大阪府木連の前身である。